沖縄芸能育ての親、歯科界、伝説の偉人

沖縄のチャップリン 

小 那 覇 舞 天

2010/05/07

沖縄県糸満市在 小◎原幸○郎 記

  
ご無沙汰しております、小◎原幸○郎 です 45歳の時に脳出血、右マヒとなり歯科医院を閉院しました

沖縄に来て5年目、お蔭様で元気です、現在、介護支援専門員、社会福祉士として仕事をしております

那覇市より12k南部、沖縄戦、激戦地、糸満市に住んでいます、

皆様に、沖縄芸能、育ての親、漫談家、沖縄のチャップリンと言われた、小那覇舞天(オナハ ブーテン、本名、小那覇全孝)さんを紹介します、

ブーテンさんの事は、与那国島の上地医師の兄上が那覇で開業歯科医だった関係で、奥様から聞いていました、去年、古本をネットで入手、読みました、すごい偉人です。5月にも地元テレビで紹介されていました、現在でも、なんとか、ブーテンを名乗る漫談家がおります、
沖縄は昔から芸事が盛んです、またテレビもローカル番組で芸能が充実しています、その中にはお笑いのタレント集団も複数あり地元テレビでも活躍しています、

小那覇さんは戦後の沖縄大衆芸能の復興に奔走、終戦直後の荒廃した沖縄に自ら笑いを届け故郷の復興に尽力された、元々は日本歯科医専出の歯科医師、琉球音楽や文学研究家です、古今の芸能に造詣が深い逸材として知られ、沖縄のフォー・シスターズ、乙姫劇団、糸満ヤカラーズという人気チームを育てた。60代以上の沖縄の人であれば、その名前を聞くだけで、まず間違いなく笑みがこぼれるという。大正初期、東京の学生時代、浅草の芸能や帝国劇場の大正オペラから多くを学び故郷に生かしたようです、沖縄芸能の父と呼ばれ、現在、沖縄県うるま市(旧、石川市、具志川市)には記念の、市立文化会館・大ホール、「舞天館」まである、昭和30年代、お笑いで沖縄ラジオの超人気者になった、沖縄コカコーラのCMがブーテンさんだった、そのCMの製作やセリフは全て先生のアイデアで傑作だったらしい、

また、先生は文学、詩歌にも造詣が深く、同人誌も出していたようだ、同人仲間には石川啄木と交友があった山城氏もいたようだ、先生の音楽弟子には沖縄三線(サンシン)の名手、登川流・宗家、元琉球民謡協会会長、登川誠仁、漫談の一番弟子が照屋林助(沖縄の有名な芸人、漫談家、芸名・テルリン、故人)、林助の息子が音楽家、りんけんバンドの照屋林賢、その孫に、今、テレビで活躍する吉本喜劇の、お笑いタレント、ガレッジセールのゴリ、姪孫は、元ミス・ユニバース世界2位、知花くらら です、

また、ブーテン先生は普段は無口で、まじめ人間、また超多忙の中、名門、県立那覇高校の永久同窓会長として死ぬまで47年間も終身会長として母校再建、昭和35年母校の甲子園春初出場時にも大活躍されたようです、逝去後の現在でも名誉同窓会長、10年程前に生誕100年会が盛大に行われたようです。今でもネットでは本、レコード、CDが出ています、沖縄市の楽器店にもあるようだ、惜しくも本土復帰2年前に逝去、氏は元々は琉球王朝の御典医の家系に生まれたが、維新の際に家が没落、祖父、親が事業で失敗、破産、でも苦学して旧制中学もトップで出た、残念ながら経済上、上級校への進学を断念、学費のかからない師範学校に篤志家の援助で進学、教員になり、その後、嘉手納村の伊佐医師や村の援助で歯科医になったようです。

本によれば母親が働き者で教育熱心だったようです、卒業後、約束どうり嘉手納で開業、大正時代の沖縄は医師、歯科医師が極端に少なく、ニセ医も多かったようだ、開業後は多忙を極め、8年後、旧制中学の後輩、知念歯科医を村に開業させ、夜は二人でお笑いの舞台に出たようだ、笑うブーテン、笑わないチネン・・・現在の漫才のようなものではなかったか・・・ブーテンさんは青年団活動、消防団活動にも熱心で知念先生と二人で、会長、副会長として、米軍上陸直後、村人を、避難させ捕虜になり一人の犠牲者も出さなかった事は特筆ものだ、これは欧米の底力、心を熟知していたからだと思う、

知念歯科医は後年、県の歯科医師会専務から県議になり最後は県会議長なども勤めた。ブーテン先生の選挙演説は漫談風で大勢の人が集まったらしい。戦中、知人の選挙演説に出て、間違って村議にもなっている、戦後は、英会話の特技〔日本歯科医専時代、東京都の英語弁論大会、学生部門優勝〕で、駐留米軍幹部や米医官からも通訳としても重宝されたようだ、収容所の責任者ハンナ中佐は文化人類学者で復興は、まず心の再建からという点で二人は意気投合、一緒に活躍した、ブーテンがいた石川の収容所に沖縄の芸能関係者が軍命で集められ、沖縄芸能協会の素地を作った、そのころ沖縄は開業規制で先生は石川市立病院歯科部長、同時に沖縄暫定政府の文化部芸術課長も勤めています。

また戦後、沖縄県歯科医師会〔といっても10名ほどしかいない〕の復興にも尽力、日本歯科の3年後輩、那覇市の平良会長、子分の知花専務を立て、自分は副会長として補佐したようです。沖縄は30年前まで医療人が極端に少なかった、生前、石川市は人口3万、歯科医は先生だけ、沖縄は昭和50年頃まで保険制度が無く、全て自由診療、でも先生は貧困層からは金を請求せず、超多忙だったようです、夜は芸能活動、何時寝たんだろうか?稼いだ私財は、全て後輩の育成にあてた点も明治の人らしい

先生の良き友人、後援者が崎山酒造社長2代目〔元・石川市長、現社長の父上〕、そこから泡盛「舞天」が今でも出ています、崎山酒造をネットで検索したら、最近、盛岡の米で作った泡盛、「夏見の夢」の製造元でした。   「泡盛・夏見の夢紹介ページ

先生は戦後、娯楽の少なかった石川の焼け野原に、松・竹・梅、三組の劇団を結成、沖縄全土を回ったようです、団員は全て琉球政府の職員とした、つまり公務員です。

下記、本によれば、先生が設立した石川舞踏団や乙姫劇団、その慰問を続けたハンセン病施設、沖縄愛楽園の記載もあった、「愛楽園賛歌」、「健康の歌」も先生の作詞・作曲だ、昭和22年当時、ハンセン病の知識を米軍駐留医から、すでに得ていたようだ、でなければ、団員を引き連れ、何回も訪れるわけがない、自分がハンセン病を知ったのは大学に入り、和田教養部長と映画、「砂の器」からだ。また、昭和26年に乙姫劇団を引き連れハワイの沖縄人会の慰問、飛行機で海を渡ったようです、この時も通訳で活躍、米軍駐留幹部との信頼が無ければ無理だったと思う、

2010年2月に、沖縄市、うるま市などで、記念の舞天館、泡盛の蔵元、楽器店などを訪問しました、うるま市と盛岡市は友好都市らしい、

その際、泡盛,舞天、蔵元社長夫人の案内で工場見学、その際、泡盛・「舞天」と沖縄の結婚式やお祝いの席で多用される「泡盛、松藤」は、東北では偶然にも、私の長兄が経営する、盛岡市城西町、マルイチ・タストヴァン焼酎館で販売されていることを知った、これには驚きました、後日、メールで酒担当者に聞くと、沖縄のオリオンビールとともに、主に東北の沖縄料理の店が客らしい・・・売り切れの場合注文可能らしい・・・
泡盛・「舞天」35度は、値段がチト割高だが、臭みがなく飲みやすく、自分も好きです、沖縄に来て日本酒から泡盛に嗜好が変わりました
右写真クリックで拡大表示

現在、沖縄には、居酒屋、舞天が8店舗、東京都心、九州博多、兵庫県にもあるらしい

ブーテンさんの長男は、小那覇全人さん、元ラジオ沖縄の人気アナウンサー、83歳、沖縄の超有名人、父親譲りの沖縄芸能、沖縄方言研究家として知られ、今でも50年以上続く、全国最長寿ラジオ番組のキャスターとして、人気があります、方言だけでニュース放送するらしい、沖縄方言は理解不能な自分には縁がありません・・・

沖縄人なら誰でも知ってる夏川リミの名曲「安里屋ユンタ」という歌の作詞をしたのはブーテンの子分で元立法院議員、星さんの息子らしい。

うるま市〔旧石川市〕で今でも広く歌われている「石川小唄」はブーテン先生の作詞・作曲です、なんともユーモラスな詩です。
ちなみに詩や短歌のペンネームは先生らしく「禿野平太 ハゲノ・ヘイタ」です。

戦後、沖縄は悲劇の島、悲惨さだけ報道されがちですが駐留軍の美談や復興に協力したブーテンさんのような話は10年前まで沖縄マスゴミや本土のマスメデアには敬遠されがちだったようだ、これは戦後、「米国沖縄駐留軍は全て悪」、という間違った、思想から来ているかもしれません、先生や、全面協力した当時の米国駐留軍に関し、今後も調べてみようと思っています。

奮戦記紹介記事
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先生の本が数冊、出ています、【笑う沖縄 「唄の島」の恩人・小那覇舞天伝】   本の紹介には次のように記されています、

笑顔と唄が溢れる沖縄の今は、この男なくして語れない…。戦禍で傷ついた沖縄の人々の心に活力を吹き込み、沖縄芸能の存亡の危機を救った男、歯科医師でありながら稀代のボードビリアンとして、また脚本家兼プロデューサー、作詞・作曲家、そして司会者として…戦禍で傷ついた沖縄の人々の心に活力を吹き込み、沖縄芸能の存亡の危機を救い、今の華やかな沖縄芸能の土台を築き上げた男、終戦前後から本土返還までの閉ざされた時代の沖縄を、唄と笑いで満たしたくれた偉人、小那覇舞天

この本には、大正時代、浅草の大衆演劇に学んだ宮沢賢治との対比が青年団体活動へのかかわりなど通し述べられています、また石川啄木との交友があった同人仲間の玉城氏についても記述がありました、東京の帝国劇場が渋沢栄一翁によって設立されたのは知らなかった、明治の人は偉いと何時も思う。

戦後、家族を亡くし家を失くし、失意のどん底にある人々に「ヌチグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」生き残ったものが生き残った命のお祝いをしようというのである。弟子の照屋林助氏を従えサンシンを奏でてコミカルな踊りや漫談を披露する。いつしか人々に笑顔を思い出させた。

ブーテンさんの偉いところは、私財を投じて多くの人材を育て、沖縄に笑いと夢を与えたところと思う


追記
2012年6月28日(木)記

ブーテンさんの事は、大震災の後、去年、NHK衛星放送、今年は総合テレビで「笑う沖縄100年」として1時間番組で全国に紹介されました、沖縄芸能、育ての親なそうです・・・・

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